KUDAN Project「真夜中の弥次さん喜多さん」

2007年1月7日/名古屋・七ツ寺共同スタジオ

実は2002年以来コンスタントに上演、各地海外公演を経ての今回の凱旋公演(海外バージョンで)。しかも最終公演。かねてから観たい観たい観たい、観たくて観たくてたまんねえと密かに公言してきただけに、2007年の演劇初めがこの作品で感激にむせび泣かんとする勢い。
これぞ小劇場演劇でやる弥次喜多、原作とも映画版とも異なった独特の世界観は天野天街によるそれか。とはいえ原作のエッセンス、原作で重要なところはしっかり汲み取って溶け込ませている。お伊勢さん参りをする物語であるにも関わらず、弥次と喜多、ふたりの登場人物は最初から最後まで宿から出ない。
そこではっきりと思われるのは、この作品は「旅」の作品ではなく、「正面切ってふたりの人間を描く」作品であったのだろうということ。生と死、現実と非現実、対極にあるものをふたりの人間で描くこの迫力。二人芝居でそもそも原作の無茶苦茶さを忠実に再現するのは不可能に違いない。であるなら、ふたりの人間だけでできることを徹底的にやる、ということか。
とはいえ原作の軸、「同性愛者なれども純愛」を踏襲。ストーリーのシンプルさは原作以上、さっぱり観やすく処理されていて好感。そこにわけのわからなさを出来る限り突っ込んで、絶妙なバランスで観客を牽引。演劇のライブ感を活かし、くどいぐらいの天丼ギャグ。天丼はギャグでなくなってからがホンモノ。「見える」「見えない」を切り替えてひたすらにリフレイン。現実と非現実が舞台上で確実に揺らいでいく不思議に戦慄すら覚える。
やがて舞台上と客席、小劇場であるゆえに非常に薄いその境目が確実に揺らぎだす。前半、喜多がロープを使って早速その境目を軽々と跨いでいる時点で予測しておくべきだった?客席から見える舞台上のものは果たして何か、それすらも逆手に取った展開に唖然。なかでもリアルタイムで携帯電話で注文され、本当に出前が届いてしまう「うどん」に衝撃。あーびっくりした。そんなのありかよ。
わけのわからなさを羅列しだしたらキリがない、とめどなく溢れ来る奇天烈トリックのオンパレード。原作にもあった不条理、舞台でしか成立し得ない不条理。不条理をロジカルに積み重ねられることが快感に変わるや、観客はこの不思議さに捕らわれて抜け出せず。
この巧みにして緻密な構成に気をとられるべからず、次第にストーリーは毒々しさを増す。最後に見えてくるものは死生観そのもの。トリッキーな仕掛け、ちょっとしたマジックから、果てはびっくりイリュージョンまで。やや尻切れトンボ?な結末も、希望の見せ方が鮮やか。文字通り「何もなくなってしまう」ラストシーンが印象的。
役者。小熊ヒデジ、荒々しくも繊細な人物像が透けて見える喜多は面白おかしく、かつ切ない。寺十吾、遊びまわりの面白さもそこそこに、押さえどころを外さない正確さ。そもそもいいおっさん二人が舞台上でいちゃついても気持ち悪くない、それ自体がまず不思議な。